ご利用者の作品集:コラム(3編)

さくら通信に掲載させていただいたご利用者さんの作品の中から「コラム」などの作品をご紹介します。(お名前はご本人の了承を得て掲載させていただいております)

「母の針仕事」芦川洋子

母は軽い風邪がもとの脱水症状で入院した翌日から、食事が飲み込めなくなりました。

突然の入院による環境の激変、持病の糖尿病に加え誤嚥性肺炎を併発し、抗生物質と水分補給のための点滴、オムツの着用、嚥下障害など、母は身体的に大きなダメージを受け、意識も低下して会話によるコミュニケーションも難しくなったのです。

治療のための入院ですが、毎日面会に行っても母を身近に感じることのできないもどかしさばかりが募りました。

主治医の先生からは胃ろうの説明があり、家族として判断をしなければなりません。胃ろうを造らない場合は、自然死を受け入れる覚悟を持つことも示唆されました。胃ろうの本を読んだり、人にも相談しましたが、悩みは深まるばかり、その判断のための唯一の方法は、感性だけで母と気持ちをひとつにすることでした。

そして 「母は帰りたがっている。母を家に帰そう」と決め、経管栄養法をしないで自宅に戻った場合の、母の余命を先生に訊ねました。「家に帰って三日で亡くなる方もいれば、一週間、三週間、一ヶ月、三ヶ月先という方もいらっしゃる。しかし、一年は難しい。 」と、先生は話されました。

それを覚悟の上で、自宅で母を看取りたい。私達家族の意向に沿って、在宅医療機関と家族の聞をつないで、くれる連係室の方の尽力で母は入院から六週間後の一二月三日に自宅に帰ることができました。

在宅で母を診てくださるさくらクリニックの佐藤院長はじめ宮本先生、訪問看護の看護師さん、毎日のケアをしていただくヘルパーさんの手厚い看護のもとで、母の在宅療養がはじまりました。まもなく母は落ち着きを取り戻し、体調も安定してきました。

一日ひとつでよいから楽しいことを見つけようという思いで在宅介護に入りましたが、嬉しいことが思いのほか多い毎日でした。

家に戻った母はしばらく、記憶のなかの最も居心地のよい場所を探しているようでした。そこは幼少の母が病弱のため一年間休学し、両親の看護のもとで過ごした頃のようです。まもなく私を「お母さん」と呼ぶようになったので、私も「雪っ子ちゃん」と呼びかけ、母性本能全開で寄り添いました。その一方で、私の顔を見て「幸せそうな顔をしているわね~」と微笑んだあと、真顔になって「でもこれから、だんだん大変になるの?」と、私の行く末を案じる母の表情になるのでした。

母を在宅で看る経験から、私は人に寄り添うことの喜びを、少しだけでも学ぶことができました。そこにはさくらクリニックの諸先生と、医療スタッフ皆様の、昼夜を通した診療体制があったからです。二四時間の緊急連絡体制で、家族の不安に丁寧に対応して下さる。これほど心強し、支えはありません。そのおかげで母は新年を迎えるとこができ、一月十日に八九歳の誕生日を祝うことができました。

小康状態を過ごした母は、しだいに経ロでの栄養食品の摂取も難しくなり、私も覚悟を決める時が迫りました。

私は母の最後の日を受け入れるために、針仕事の好きだった母のパッチワークの作品を室内に飾リました。それを見た母は寝たままの状態で、無意識で、針に糸を通し、結び目をつくり、自分の掛けている布団カバーの端を持ち、縫い物をはじめました。

この架空の針仕事をする母は、命果てるまでの一日一日を懸命に生き、一呼吸ー呼吸を真剣に行っている姿として、私の脳裏に深く刻まれました。一月二十日未明、母は眠るように静かに永眠しました。

さくらクリニックの佐藤院長はじめ、母を最後まで看てくださった皆々様に、
深い感謝をこめて御礼申しあげます

「ある闘病記〜愛はリハビリ」中野区・UK様

はじめまして。中野区に住んでいる UK といいます。昭和18年生まれの62歳です。

おととし脳出血で倒れ、ほぼ2年入院。この9月に自宅に帰り、さくらクリニックにお世話になっています。まえにも一度、脳梗塞で倒れていて、今回で両手足とも不自由になってしまいました。毎日、妻や娘に、寝起きから食事、排泄まで面倒をかけています。その上、しびれやこわばりがあっちこっちにあって、リハビリもなかなか進みません。食事は、いわゆるペースト状のものを口からとり、あとは経管栄養で補っています。経管は、毎回チューブを口から入れてもらっています。世話をするほうは大変だと思います。しみじみ家族のありがたさを痛感しています。

時々、こんな私でも生きている意味があるんだろうかと本気で思います。そんなとき、思いがけないことが起こったのです。

そんなとき、思いがけない手紙が届いたのです。それは小学1 年生の時のクラスのマドンナからでした。せとさん、という人です。美少女というよりも頭の良いという印象の人でした。私は入学したその日から、ぞっこん彼女にまいっていました。席は隣同士で、私は自分が日本一の幸せ者だと喜びました。

実は私は、今回の病気を発病後、小学校のホームページにアクセスし、自分の現状をいろいろと書き込んでいました。せとさんはそれを見て手紙をくれたのです。手紙はこんな書き出しでした。

『けんちゃんと呼ばせてください。いつも目を通している掲示板に、けんちゃんのメッセージを見つけた時、わたしはわが目を疑いました。53年前から大好きなけんちゃんの息づかいがそこにはありました。けんちゃん、いま、リハビリ中なんやて……?』

私たちが通っていた小学校は、三重県の伊賀上野にありました。伊賀上野は、松尾芭蕉生誕の地であり、伊賀忍法のふるさとでもあって、豊かな山川に恵まれた土地でした。

せとさんの手紙は想い出の核心に触れてきました。『けんちゃん、憶えてる?初めての夏休みのこと』その夏休み、どういう弾みだったか、私はせとさんの家に泊りがけで遊びに行くことになったのです。勿論、両方の親も承知の上でしたが、つい数年前まで『男女7歳にして席を同じゅうすることなかれ』と教えられていた時代でした。それが突然、アメリカ流に男女は平等になりました。またその年『青い山脈』という映画が封切られ、青少年の男女交際がいわば文化として扱われるようになっていました。その日、私たちは遠足に行くような気持ちで、弁当持ちで近くの小さな公園へ行きました。

私の母が持たせてくれたのは稲荷ずし。せとさんのは、卵焼きと干瓢の太巻きでした。昼どき、私たちはブランコに腰掛けて弁当を広げました。せとさんは、『お母ちゃんが、これ、けんちゃんの分やて』と、あらかじめ小さなきょうぎに取り分けてあった三切れの巻き寿司を、私にくれました。『ああ、そや、ワイのも』と、私は、稲荷ずしを三つ、せとさんにあげました。『おおきに』と、せとさんはニッと笑って、その一つを前歯でちぎりました。≪トンコ山のリスみたいや・・≫と、私はせとさんの食べ方を見て可愛いと思いました。トンコ山というのは、栗やアケビがいっぱい採れる裏山でした。

そのとき雷が鳴り夕立が降ってきたのです。せとさんのお母さんが、『早う、入っといで!』と大声で私たちを呼びました。それが、あの出来事のきっかけでした・・・。

雨が激しくなり、すぐ近くに雷が落ちました。地を這う閃光。そして轟音。『きゃっ!』と、せとさん母子。私はびくっとしたものの、かろうじて声は出しませんでした。『けんちゃん、さすが男の子やね』せとさんのお母さんが言いました。しかし私はちょっとオシッコをちびっていました。『そやけど雨でびちゃびちゃや。風呂入っていきなさい』せとさんのお母さんはそう言うと、私の家に電話をかけました。戦後間もない時代でしたが、私の家にも、隣家と共同で電話があったのです。結局私は、その夜、せとさんの家に泊まることになりました。夕食はハンバーグにほうれん草のおひたし、それにえんどう豆ご飯でした。『ウワー、ご馳走や!』と私は、よその家であることも忘れて、行儀悪くハンバーグにかぶりつきました。夢中で食べていると。『けんちゃん、なんで、ほうれん草、食べへんねん?』せとさんが怪訝そうに訊いてきました。『ん?・・・』ほうれん草の嫌いな私がその理由を言いそびれていると、『食べなあかん!ほうれん草は栄養たっぷりあるねんで』とせとさんはきつい目をして、叱りつけるように言いました。その時、せとさんの目の光だけを残して、家中の、いや、町中の電気がパッと消えました。停電でした。

10分ほどして電気がついた時、いつの間にか私の口の中には、ほうれん草のおひたしがいっぱい入っていました。『あ!』私が思わず吐き出そうとすると、せとさんが歌を歌うような声で『よーく噛むんやで』と言いました。私は言われるまま、20回以上も噛んで、ごくんと呑み込みました。思えばそれと知っての初めてのほうれん草でした。それ以来、ずっと、私はほうれん草が大好きになりました。まさに、せとさんの力です。実は私の人生には、せとさんのおかげだと思えることがその他にもあります。

その夏休みが終わり、二学期になって間もなくのことでした。私の家は、父親の仕事の都合で東京へ引越しました。新しい住まいは、ガード下に建つ四畳半一間のアパートでした。アパートの隣には、時間貸しの卓球の練習場があり、近所のおじさんたちがよくかき氷などを賭けて遊んでいました。そのころ卓球は流行っていて、みんな、なかなか達者でした。私たち子供は、窓からその様子を観て楽しんでいたものです。ある日、その卓球場にあるラジオから、聴き憶えのある歌声が聴こえてきました。少女の声でした。

♪村の渡しの船頭さんは今年60のおじいさん。年はとってもお舟を漕ぐ時は元気いっぱい櫓がしなる。それギッチラギッチラギッチラコ。やがてその歌声は、全国独唱コンクール・小学校低学年の部で優勝した三重県の小学1年生、ほかでもない、せとさんのものだと分りました。そういえば、せとさんは歌も上手でした。音楽の先生にも特別に目をかけられていました。夏休みのあの日、『うち、コンクールに出るかも知らん・・』と言っていたような気もするのですが、雷と停電騒ぎで記憶がはっきりしません。

そのころ私は、転校したばかりの東京の小学校で、クラス中のいじめの対象になっていました。しかし日本一になったせとさんの歌声を聴いて、(オラ、あのせとさんとちょっとやそっとの仲とちゃうねん)と、なぜか不思議な自身が湧き、それまで程には、いじめられることがなくなりました。せとさんの想い出はそれだけですが、今回、そのせとさんから手紙が来たのです。

『…けんちゃん、いま、リハビリ中なんやて?…大丈夫や、けんちゃん、うちが付いてるさかいな』

今度はその言葉が、遅々として進まぬ私のリハビリを助けてくれるような気がしてきました。『よーし!』俄然、やる気が出てきました。ふと庭に目をやると、老いた桜桃の木に、まだ青いものの、小さな実が5つ6つ、なっていました。《完》

「ライフインフォメーション」世田谷区・N様

Nさん(20歳代、女性)は平成12年、不慮の事故にて四肢麻痺・意識障害を来たし、現在、ご家族の手厚い介護のもと在宅療養中です。本手記は、ご家族のご好意により、Nさんが病前に仕事で執筆された論文を要約したものです。(2006年4月さくら通信6号にて掲載)

例えば、ある日あなたが突然事件に巻き込まれたとしよう。あなたを有利な状況に導いてくれる弁護士を、どのようにして探せば良いのだろうか?

例えば…、たとえばあなたが不治の病と診断されたとしよう。この広い日本の中で、その病を治療できる医師は本当にいないのだろうか? あなたが助かる方法はないのだろうか?

目まぐるしく情報化が進む今、もはや「情報」という言葉を聞かない日はなくなった。しかし、例に挙げたような「日常生活を営む上で必要な情報」(ライフ・インフォメーション)に限って、まだまだ体系的には得られない。人づてによって運良く情報を掴めることもあるが、いざという時になって運任せに情報を集めるのでは、あまりに遅すぎる。よりによって命に関わる情報(医療分野)でさえ生活者には徹底的に不足しているのだ…。

それには制度的な問題(第一に、医療法による広告の制限)と、その一方で生活者・患者といった情報の受け手側の問題(情報を得ることに対する意識の低さ)の問題がある。

例えば、あなたが「不治の病」と診断される。しかし貴方は諦めない。可能性を実現に変えるのは、自分の意識次第であるから。自分の手で最適な医師や医療機関の情報を掴もうとする。幸運の女神が微笑むかは果たして分からない。

しかし、「集められる情報は全て自分の手で集めた」と思えるならば、涙の意味合いも変わるだろう。

さくらクリニック 院長 佐藤 志津子
さくらクリニック 院長
佐藤 志津子
覚悟の瞬間 医療法人社団緑の森さくらクリニック 佐藤志津子

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