ご利用者の寄稿:ご本人編2010年~2009年(5編)

一部を除いては、クリニック発行の「さくら通信」にお寄せいただいた闘病記等より転載させていただいています。

「闘病記」~中野区うえにし研さん~

二度めの脳卒中にやられてからもう5年以上になります。後遺症で、立てない・歩けない・喋れない・ 飲み込めない・・・・のナイナイ尽くし。正直、人生を諦めました。さくらクリニックの先生に出会った のはそんな時でした。 その日、 少し福島訛りのある太陽みたいなPTの先生が拙宅にいらっしゃいました。 根本先生です。先生はいきなり小生の身体を支えて、「さ、歩きましょう!」小生、吃驚したものの、と にかく指示に従って左右の足を動かしてみると、何と自分の足が床を踏み、前に進んでいるのです。独りで歩いたわけではないけれど、とにかく立って動かしている!・・・小生、嬉しくて、「アリガトウゴザイマス」 ・・・・とまではハッキリ発音出来ませんでしたが、思わず口を動かしました。それから小生、やる気が出てきて、少しずつ喋れるようにもなりました。 ・・・・今も小生、さくらクリニックの最高の先生方・齋藤医師をはじめ、錦織先生(PT)らにすっかりお世話になっています。

お陰様で何とか飲み食いも出来るようになりました。 小生、原因不明の腹痛でのたうちまわったことがありました。その時は齋藤先生がいちはやく腸閉塞だと 診ぬいて、適切な治療を指示して下さいました。

又、時には院長先生も訪問して下さいますし、看護師さんも毎週来て大事な排便コントロールをして頂いてクリニックの皆さまには大変お世話になっております。

猫の絵:UKさんの娘さん作猫の絵:UKさんの娘さん作我が家にはミケという名の三毛猫がいますが、そのミケも先生方がいらっしゃると、甘えてまとわりつきます。 甘えん坊のミケは我が家のムードメーカーになっており、根本先生と仲良しです。最近、 根本先生の左手にキラキラ光るエンゲージリングを見つけました。やっと嫁に行けるのですね、おめでとうございます。 ※猫のイラストは娘さんの作品です (2010/9「さくら通信」21号より)

「私の半生|闘病記」~中野区FTさん~

これまで私は主人が亡くなってから約20年一人暮らしをしております。現在は95歳になりました。これまで3人の息子を育て上げましたが、若いころは家業の仕事を徹夜でこなしたこともあり、苦労も多くありました。いま思い出すと戦中は北海道に移り、子供2人を連れて生活に苦しい時もありましたが、その時の苦労があったからこそ今は楽しく暮らして行けるのだと思っております。

現在さくらクリニックにお世話になり、先生に薬の調整や悪いところをよく診て頂いております。リハビリを始めたきっかけは手の痛みや力が入らず、肩を上げる事も困難になってしまったからです。更衣もできなくなってしまいましたがその後、順調にリハビリも進み何でも自分でできるようになりました。買い物にも行けるようになり安定しておりましたが、再度体調が悪くなり原因を先生に見つけて頂き、また元気になりました。

気がつくと95歳、一時的な物忘れもあり以前のように文字が思い出せない時もありますが、今は勉強しないといけないと思い、辞典を引いて漢字の勉強を少しずつしています。

私の長生きの秘訣としては、毎日の日課としてお経や身の回りのことを出来るだけ自分で行うこと。食事については制限があり、健康のために塩分制限のお弁当を食べております。(本当は塩辛いものを食べたいのですが・・・笑)他には酢の物・海のもの・野菜をよく食べています。大事なことは肉を少量にして食べ過ぎないという点です。皆様もお試しください。

一時体調を崩し入院もしましたが、以前のように屋外に出て買い物に行ける事を今後の目標としてこれからもリハビリを頑張りたいと考えています。

さくらクリニックには平成19年からお世話になり、2年が経過しました。明るく自由に生活できているのは、近くに住む息子とクリニックの皆様のおかげだと思っています。本当にありがとうございます。これからも宜しくお願い致します。(2009/8「さくら通信」18号より)

「闘病記」~中野区小野誠さん~

「生活交差点ゆうゆう」NPO新宿ライフ・ケア・センター H20/12/19(5539号)より抜粋

若い頃に交通事故に逢い、今簡易電動車椅子で生活されている小野さん。 子供時代は中野区の家の近くには原っぱがたくさんあって、とにかく外を走り回っておられたそうです。遊んでばかりで勉強はしないのに小学生時代は成績がとても良く、ご家族にも期待をかけられ、私立の中学を受験しすんなり合格。自分は出来るんだと増長していたら、学期試験で下から二番目という成績をとってしまいそれから努力され、大学受験で自分を見つめ直し、学生時代はスーダラ調ながらも多少勉強し卒業後は地方公務員として働き始めたそうです。

役所に入って1974年12月、通勤途中に車にはねられ、約2ヶ月間、意識不明の状態が続きます。首の骨を折り、「頸椎損傷」になり、一生歩けないと聞かされてから母に当たり、医師に当たり、看護師に当たり、相当荒れたとのこと。「彼女を巻き添えにしたくない」と婚約も解消されたそうです。

しかしまわりに当り、死にたいと言って過ごす日々の中にもいくつかの転機がありました。ひとつは看護師との出来事で、死にたいと言う小野さんに対して、看護師は大胆にも馬乗りになり、「死ぬってこういうことなのよ」と首を絞めたそうです。その時小野さんは、逃れようと首を振りながら動かない体を上にずらせようとし「自分は死ねないんだ、その気もないんだというがちょっとわかった」とのこと。また完全看護でなかった当時、病室に泊り込みながらつきっきりで看てくれた母親に当り散らし、その事で泣かれたのもかなり大きな転機でもあるとのことです。そうした出来事を経て「死ねないんだったら、前に一歩踏み出すしかない」「周りの人達を泣かせたくない」、「同じ人生生きていくのに、下を向いて生きていくのも上を向いていくのも同じ。どっちを自分が取るか。上は向けなくても前を向いていこう」と思うようになったそうです。しかし具体的にどうしたらいいのか全く判らないまま退院し、リハビリ病院に2年半入院します。そこでひとつの出会いがありました。右手は使わず左手は肩しか動かない人が、口に絵筆をくわえて絵を描いていたそうです。その姿を毎日つぶさに見て、自分ももっとがんばれるかもしれないと思ったことが3つ目の転機になり、それからは厳しい訓練も望んでやるなど少しずつ行動に移していかれたそうです。また、入院中に同じ障害をもつ人たちの集まりである「頸椎損傷連絡会」に参加。退院後、仕事をしたい希望があり、職業訓練校や通信教育などで和文タイプを受講。その後に頚髄損傷連絡会で重度障害者の職域を広げる活動に携わります。この活動で生まれた職場で、コンピューターソフト開発の仕事につき、約十年間、車で営業に出たり納期が来れば徹夜をするなど続けられていたが、健康上の理由で仕事を断念。当時は日常生活や車の運転など、「がんばれば自分で出来る事をがんばってしまった」と。そのことで体への負担も増え、「介助者を使って時間短縮だけじゃなく労力を軽減するという事も必要だった」と思われたとの事ですが、当時は同じような障害レベルの人たちが、健康上の理由で退職せざるを得なかったそうです。

小野さんは、「人間には何か転機があって、それをどう受け止めるかということでしょうね。僕みたいないい加減な人間でも多少は変われる」と話されました。
「それぞれの障害を持っている人が動く広告塔」と考える小野さんは、電車の乗り降りなど日常の場面場面で、気付いたり感じたりした事を特に子どもたちに向けて伝えているそうで、そんな自分自身について「時々嫌味なおじさんになってる」と笑ってお話されましたが、小野さんの人柄が感じられました。(2009/5「さくら通信17号」より)

「闘病記」~杉並区石堂小波さん~

私は教会の仕事を40年間行ってきました。ある朝、いつも通りにアパートを 出て迎えの車に乗るまでは覚えています。その後の記憶がないのは脳出血で倒れたためであり、右上下肢が思うように動かなくなってしまいました。倒れてから6ヶ月間リハビリを行い、自宅での一人暮らしが始まりました。一番大変だったことは、食事の面でした。身長168cm・88kg であった私は以前から膝関節の変形があり、食事制限を勧められていました。しかし食べること(お菓子)が大好きだった私は制限が自分ではできませんでした。その後さくらクリニックさんの訪問診療が始まり、先生に厳しくチェックされました。(冷蔵庫・ごみ箱・枕下・配達弁当の内容など)驚いたのは本の間のチョコレートまで発見され、その時 「先生は鬼!!」と心の中で思いました。 その結果、H17年7月から現在までに24kgの減量に成功しました。長年の膝関節の痛みも軽減し、現在は訪問リハで 近所までの散歩にも行けるようになりました。チェック先生(伊澤先生)ありがとうございます。

現在に至るまで、私が一人暮らしをして行けるのは、周りの方の支援のお陰だと思っています。例えば一人暮らしで転倒は怖いものですが、私の場合は、近所の方
(薬局のAさん)の協力もあり、これまで2回の転倒は助けていただきました。電話に出ない場合にも近隣の方が心配で来てくれることもあります。とても住環境にも恵まれ、周囲の方にとても 感謝しております。不安はありますが、今後も在宅で一人暮らしができるようにリハビリも頑張りたいと思います。(2009/1「さくら通信16号」より)

「闘病記」~IMさん~

元々東京・蒲田が実家の私は、小笠原で民宿を経営していました。長年、じん肺と慢性呼吸不全を患いながらも、何とか暮らしていましたが、平成9年、検査入院の際、あまり状態が思わしくないため今後は酸素療法が必要になるとの診断をうけました。酸素療法とは、自分の鼻と酸素ボンベをチューブでつなぎ、常時酸素を吸入するといったものです。そのため、小笠原には帰らないほうが良いと言われ、杉並区の息子宅(社宅)にお世話になることになりました。その後、肺炎症状が続いたため2週間入院しましたが、退院の頃は、以前のように歩く事もできず、全介助に近い状態でしたので、今後はどうなるのか心配でした。そんな中、ケアマネージャーさんを通してさくらクリニックにお世話になることになりました。

平成19年1月より佐藤院長の訪問診療が開始になり、いつも元気な院長先生に色々なことを相談・提案していただき安心しました。何より歩けないことが心配でしたが「3ヶ月ぐらいで歩けるようになるわよ!」と院長先生に言われ、驚きとともに最初は半信半疑でした。

4月から、リハビリの根本先生の訪問リハビリが開始となりました。最初は立つのがやっとの状態でしたが、5月からは歩行器で歩く練習を開始。その後、少しずつ歩けるようになり、6月からは看護師さんにも協力していただき歩行訓練を継続しました。苦労したものの、おかげさまで体力も回復して、ついに歩行器を持って自分で歩けた時にはビックリしました。

その一方で、一番大変だったことは、食事が摂れなかった事と便意がなく自力で排便が出来なかった事でした。食事はお粥が数口しか食べることが出来ず、妻も、私に何を食べさせれば良いのかいつも苦労していたことを思い出します。排便は看護師さんに摘便処置をしてもらっていましたが、7月頃に退院後はじめて便意があり、その後、軽介助で歩けるようになってから排便を必ずトイレで行なうようになりました。10月には、リハビリの甲斐もあり、歩いてトイレに移動し動作が可能になったときには本当に嬉しかったです。

まだまだ苦労は伴いますが、何とか落ち着きも取り戻し、この度、社宅であった息子宅を引き払い、蒲田へ転居することになりました。大変でしたが、ここまで来られたのは、院長先生を含め皆様に親切にして頂いたからだと思います。1年数ヶ月という短い間でしたが、蒲田に引越ししても皆様の事は忘れません。どうもありがとうございました(涙) (2008/6「さくら通信」14号より)

さくらクリニック 院長 佐藤 志津子
さくらクリニック 院長
佐藤 志津子
覚悟の瞬間 医療法人社団緑の森さくらクリニック 佐藤志津子

訪問対象地域

当クリニックのある中野区と杉並区です。

訪問エリアマップ

新宿区・渋谷区・世田谷区・練馬区・武蔵野市・三鷹市の一部も対象地域となりますが、状況により対応できない場合もございますので、ご相談時にご確認ください。