「ドリームチームに支えられて」
「ドリームチームに支えられて」
2022年08月23日
今回、闘病記を書いてくださったのは、パーキンソン病ヤールⅣで寝たきりのお母様とお二人暮らしだったKPの娘さんです。介護をされている方、されていた方に読んでいただき、何か感じて頂けたらというお気持ちでご寄稿されました。
フルタイムでご勤務される中で、介護と仕事とバランスを取りながらお過ごしになられていました。そしてご家族として、お母さんだったらどう生活したいかをいつもよく考えておられました。肺炎などで何度かご入院。その都度、ご自宅で療養するので良いかを悩まれていて、入院時も病院側や在宅チームとも意見を交わす時に感情がいっぱいになってしまう事も。在宅チームの皆さんもその気持ちをお支えしつつ一緒に在宅療養を乗り越えているのが印象的でした。そして最後の時が近づいてきた時、悩んだ末ご自宅での看取りをお選びになりました。
この度、揺れていたお気持ちを思い出されながらの貴重な闘病記を頂きまして、感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
濵中
「ドリームチームに支えられて」
「もっと・・・」介護が終わった人の心に一度は生まれる想いではないでしょうか。7年前に父を、半年前に母を看取った私もその想いが消えることなく過ごしてきました。
一人で外出し転倒してしまったことから母の介護は始まりました。大事には至らなかったものの、救急搬送された病院の先生より、さくらクリニックをご紹介頂き、その後7年にわたり訪問診察という形で大変お世話になりました。当時私はフルタイムの会社員でしたので、医療介護関係の皆さんには合鍵で入室して頂き、日々のやり取りは連絡ノートで行っていました。
私は、自分が頑張れば必ず道は開ける、後悔しない様にすべて完璧にやろうと思っていました。そのため、先生や看護師さんにはありとあらゆる質問をし、ヘルパーさんやリハビリ、訪問入浴の皆さんには細かく色々なことをお願いしました。それが母にとって最良のことだと信じていました。後々それが自分をどんどん追い詰め、結局母にも辛い思いをさせてしまったのですが・・・
もしも過去に戻ることができるのなら、母も私も心穏やかに過ごすために、私はより皆さんに母のことをお任せすると思います。当時もそれを心がけ、絶大な信頼をしていた皆さんにすでに多くをお任せしていましたが、それ以上に娘である私が頑張らないとゴールに達せないと思ってしまっていたのです。そのゴールとは、母がまた元気になり、昔の様に一緒に外出したり、美味しいものを食べたりすることでした。もはや、冷静に物事を考えられなくなっていたのだと今はわかります。でも、渦中にいるとわからないのです。
宮下先生は、「お母様のことよりも娘さんのことが心配です」と言って下さり、本当に母娘共々お世話になりました。相談員さんの前では何度泣いたことでしょう。
何かあれば奈落の底に落ちてしまうように、私達家族はいつも崖っぷちにいました。母は早く死にたいと言い、私はじゃあママを殺して私も死ぬとか、テレビドラマさながらのやり取りもしました。
まだ寒い1月の末、母は本当に眠る様に安らかに自宅で旅立ちました。最期の時を迎える前日、母をいつもの様に一人で寝かせておくのがとても心配で、介護ベッドの真横にソファーを移動させ、私もそこで横になりました。一晩中、母と手をつなぎ、熟睡はできませんでしたが、私はまるで幼い頃に戻った様な安心した気持ちでうとうとしていました。母は意識は全くなく、いつもの辛そうな筋緊張もない状態でしたが、時々、私の手をぎゅっと握るのが不思議でした。生きている間の最後の夜をこのように過ごせたのは幸せなことでした。
亡くなった後、私は後悔だけの日々を泣きながら過ごしていましたが、周りの人々のサポートのおかげでまた歩きだし、こうして闘病記を執筆しています。
誰一人として欠けていたら、きっとこの様な日々を迎えることはできませんでした。母と私はドリームチームに恵まれました。
母は幸せだったのだろうか・・・何故もっと最愛の母へ感謝の気持ちで接することができなかったのだろう・・・考えれば後悔はあります。でも、母も私も不老不死ではないものの、可能な限り人生を共にすることができた、だから私達はとても幸せと最近思うのです。
そんな境地まで来れたのも、あのドリームチームに支えられたおかげだと心から思います
感謝してもしきれない思いです。いつか両親と向こう側で再会できることを信じて、その際に最高のお土産になると言われている、楽しい思い出作りを始めています。まだまだ、十分なお土産が用意できていません。一つでも多く持っていけるようにこれからの日々を過ごしていきます。
カテゴリー: 闘病記