🌸山村ヒガシ氏エッセイ第9弾 頼りなくて頼れる人🌸
🌸山村ヒガシ氏エッセイ第9弾 頼りなくて頼れる人🌸
2024年02月23日
さくらクリニック練馬 院長の佐藤です。
恒例の山村ヒガシ氏のエッセイ第9弾です。
ヒガシ氏がまだALSを発症していない頃、バイト先の同僚だった「Yさん」のお話。
ヒガシ氏がALSを発症してバイトを辞めてからの一時期、さりげなく&頼もしくヒガシ氏をサポートしてくれた方です。
前回のブログもそうですが、ヒガシ氏は本当に人との出会いに恵まれています。これも人徳か?
(これまでのエッセイは「患者様の連載コーナー」-「とりとめもない山村ヒガシ」にまとめておりますので、そちらも合わせてご覧ください。)
発症前/ 発症後
ALSを発症する前、私は渋谷駅のそばの酒屋でバイトをしていた。何人かバイトがいたのだが、その中の一人がYさんだった。
体がひょろっとして一見頼りなく、ぜんそく持ちで煙草はドクターストップがかかってるのにヘビースモーカー、酒屋勤務で免許保持者なのに運転嫌いで酒運びだけ。とにかく酒屋っぽくない人で、何っていうか⋯⋯考えることが好きで学者のような人なのだ。
そんなYさんに、私はALS発症後に大変お世話になるんだよね。
「まあメシでも食い行こうや。動きは悪くなっても普通に食えるんだから」
ALS発症で酒屋を辞める時、こんなこと言ってくれちゃってさ、正直嬉しかったよYさん。
そして数ヶ月後、本当に食事の誘いが来た。
その時はファミレスへ行き、ハンバーグを一口サイズに切ってもらったり、ドリンクバーに行ってくれたり、色々とサポートしてもらいながら食事をした。そしてこの日から月に1~2回ほどYさんと会うことになる。
食器を買いに合羽橋へ
「お皿買いに散歩がてら合羽橋行きませんか?」
腕の動きが悪くなって来たら、フォークやスプーンは変えないとダメだろうと思ってたけど、お皿も変えないといけないとはなぁ。
ということで飲食店に関連する物なら何でも揃うという合羽橋だ。100均とかにもあるんだろうけど、外出が車椅子になっちゃったからね、どうせなら遠出したい。
地下鉄銀座線田原町駅を地上へ出て、見上げるとそこには巨大なシェフ像が! そうそう、たしかこんなだった、懐かしいなぁ⋯⋯っていうのは、実は私が合羽橋に来るのは2回目。10年ほど前、舞台の衣装を買いに来たことがあるのだ。
車椅子で歩道を進みながら街並みを見渡すと、いやぁ~私は興味津々!
食器屋、箸屋、ユニフォーム屋、のれん屋、食品サンプル屋⋯⋯道路のこっち側も向こう側も果てしなく店が並んでる。なんか爽快!
「Yさん、ちょっとこの店いいですか」
一軒の和食器屋が目に留まった。店内を見ると白を基調とした色んな食器がある。よし、ここならありそうだ。ということで、車椅子で入れることを確認してから入店した。
お目当ての物はすぐに見つかった。カレー皿とサラダボウルだ。カレー皿はまあいいとして、サラダボウルは大きさ・深さ・へりのアール具合など、食べ物をスプーンで掬いやすい形状じゃないといけない。求めている物があって良かった。色もいいと思う。くすんだ白で自然な感じがいい。結局同じ色のカレー皿とサラダボウルを2枚ずつ買った。
そんなのどこでも売ってるじゃんって思う人もいるかもしれないけど、わざわざ合羽橋まで買いに行くことが粋なのだ。と、私は勝手に思っている。
そして「俺はこれとこれ」と、おちょこと水割りグラスを買ったYさん。
「ホント酒好きっすねぇ~。人のこと言えないけど」
とてもYさんらしいというか、まあ私はビール派、Yさんは焼酎・日本酒派なんだよね。一人でも飲みに行くって言ってたからなぁ、よっぽど好きなんだな。私の酒はどちらかというとみんなで飲んでる場の空気が好きで、Yさんは酒を味わうのが好きなんだろう。
「何か食ってこうよ。阿佐ヶ谷駅のそばにサイゼリヤなかったっけ?」
そうなのだ、Yさんもビンボーだからサイゼリヤ好き⋯⋯だと思うんだよなぁ。酒(ワイン)だって味を気にしなければ割安だし、なんてったって安くて美味い。だからYさんはサイゼリヤが好き。そして私も好き。
そんなこんなで合羽橋への小旅行は無事に終了した。
ALS協会っていうのがあるみたい
ある日、Yさんから連絡があった。
「日本ALS協会っていうのがあるみたいでさ、なんかALSの患者会らしいよ。今度行ってみない?」
調べてみると結構大きな団体らしく、どうやら靖国神社のそばにあるらしい。さっそくYさんがアポを取ってくれて行くことにした。
地下鉄九段下駅を地上へ出て、どうしても思い浮かぶのが爆風スランプのあの名曲。『RUNNER』『リゾ・ラバ』とカラオケでよく歌ったよなぁ。
♪九段下の駅へ向かう人の波 僕は一人 涙をうかべて 千鳥ヶ淵 月の水面 振り向けば 澄んだ空に光る玉ねぎ♪
はぁ~ん、大きな玉ねぎね。
そういやビートルズのここでのコンサートを収録したレコードが押入れに眠ってたなぁ。たしか叔母さんにもらったんだよな。でも今はプレーヤーを持ってないから聴けない。買おっかな。
日本ALS協会が入ってる建物の前に着いた。立派な西洋風の門、すげえとこにあんな。とりあえずチャイムを押して中へ入ると、数人のスタッフが迎えてくれた。
色々話した。ALSが進行するとどうなっていくか、交流会のこと、そしてJALSA(ジャルサ)という機関誌を何冊か見せてくれた。巻頭のALS患者のグラビア写真が毎号数ページ掲載されているのだが、それぞれの日常が写し出されている。色んな患者さんがいるんだなぁ。あ、私もその一人か。
「これは篠沢秀夫さんが載ったやつね」
「う~ん、篠沢教授は病気してもやっぱり貫禄あるよなぁ」
クイズダービーでお馴染みの篠沢教授。そうかぁ、頑張ってるんだなぁ。きっとALSになっても翻訳や執筆をしてるんだろう。おそらく視線入力だ。てことは私も将来的に視線入力⋯⋯ああ目が疲れそ!
日本ALS協会に結局1時間半ほどいたのだが、この訪問の後、なぜか様々な話が舞い込んで来た。私が若いのもあったのかな?
まずはJALSAの巻頭グラビア撮影(注*)、次にサノフィ株式会社本社(リルテックの製造販売)での社員向けの講演依頼、更に看護学生の自宅訪問による公衆衛生学の講師依頼、そして忘れてはいけないのが今は亡きあの俳優との出会い(注**)⋯⋯。
まあそんなのが続いて、私は日本ALS協会の中でちょっとした有名人? となってしまった。これはYさんのおかげ?
(注*) 掲載された写真です。他にもたくさんありますが、今回はこれだけ許可をいただきました。
がんばって食事しているところです。
(注**) ヒガシ氏は、ALSを発症した青年の生きざまを丁寧に描いたあの名ドラマの制作過程で、取材に協力しました。
「俺の役割はここまで」
私の症状が少し進んで、これ以上はヘルパーの支援が必要となった段階で、Yさんは「俺の役割はここまで」と言って徐々に連絡が来なくなり、何年か経った今ではかなり縁遠い存在になってしまった。
酒屋ではちょっと頼りなかったYさん。
私がALSになってからの活躍ぶりは、「なんて頼れる人なんだ!」と思ってしまったよYさん。
ALS発症初期段階、特に仕事を失ってからはYさんがいなかったらどうなってたか分からない。
今頃元気でやってるだろうか。当時のバイト仲間(実家のトマト農園を継いだ彼)にちょっと前に聞いたら、今も酒屋で働いているという。コロナは大丈夫だっただろうか、あまり潤ってる店じゃなかったからな。まあYさんのことだ、きっと「ボチボチやってるよ」なんて言いながら、のらりくらり生き延びてるはずだ。
一度会って「ありがとう」って言いたいな。
山村 ヒガシ
主治医の感想
いかがでしたか?
ALSは、少しずつ運動機能を失ってゆく病気なので、その時その時で様々な苦しみがあります。
診断がついてから「ヘルパーさんの支援がないと生活が成り立たない」状況になるまで、さりげない優しさで寄り添ってくれる人がいるかいないかで、患者さんの気持ちはずいぶん違ってくるでしょう。
「Yさんがいなかったらどうなってたか分からない」とヒガシ氏は懐かしみ感謝しているわけですが、当時の思い出が、今もヒガシ氏を癒し支えているのではと感じます。
「俺の役割はここまで」というYさんの言葉は、冷たいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。でも実際問題として、介護の知識とスキルをもつヘルパーさんでないと上手くサポートできない時期はいつか来ます。そこでYさんは「自分はここまでだな」と感じて、少しずつヒガシ氏の生活から身を引いていったのでしょう。
ヒガシ氏は現在、手足はほんの少ししか動かないので生活全般に介助が必要で、食事は胃瘻から経管栄養、コミュニケーションは文字盤、重度の睡眠時無呼吸があるので夜は非侵襲式呼吸器(通称バイパップ)を装着して寝る、という生活をしています。
長年にわたり彼を支え続けてきたヘルパーさん達、訪問看護ステーションのスタッフ達のお陰で、今もひとり暮らしを続けています。
いろんな不便や不自由はありますが、「不便だけど不幸じゃない」と前を向き、チーム全体で色々工夫しながら、それなりに楽しく暮らしています。
そう伝えたら、きっとYさんは喜んでくれるでしょうね。
ヒガシ氏の人生の一時期 頼もしく寄り添ってくれたYさんに、主治医である私も心から感謝申し上げます。